音楽制作ソフトの巨人、Native Instruments(以下、NI)に、大きな動きがありました。
今年1月末に私がこのブログでお伝えした「予備的破産手続き」の件、覚えていらっしゃいますか? あの時点では「これはすぐに倒産するわけではない、事業を続けながら再建の道を探す手続きだ」とお伝えしました。そして今回、その答えが出ました。
NIは、米国の音楽テクノロジー複合企業「inMusic」に買収されることが正式に合意されました。
2026年5月8日、NI CEOのニック・ウィリアムズ氏がコミュニティに向けてこの事実を発表。あの予備的破産手続きから、わずか約3ヶ月での決着です。
inMusicとは何者か?
「inMusic? 聞いたことないな」という方も多いかもしれません。しかし、彼らが傘下に持つブランドを見れば、その名前がすぐに腑に落ちるはずです。
- Akai Professional:MPC、MIDIキーボードの代名詞
- Moog Music:アナログシンセサイザーの聖地
- Denon DJ / Numark / Rane:DJシーンの主要プレイヤーたち
- M-Audio:エントリー向けオーディオインターフェースの定番
1992年設立のinMusicは、こうした「現場で実際に使われる」ブランドを次々に傘下に収めてきた実績豊富なグループです。特筆すべきは、その経営スタイル。ブランドのアイデンティティを尊重しながら、ハードウェア製造のノウハウを活かして長期的な安定を目指す、という姿勢を一貫して取ってきました。
NIグループとはどんな「連合」だったのか——各ブランドの素顔
今回の買収は「Native Instruments」というブランド単体の話ではありません。NIを中心に集まった強力なブランド群ごと、inMusicに引き渡されることになります。改めて、それぞれのブランドの歴史と役割を整理しておきましょう。
Native Instruments(1996年・ベルリン)
1996年、ドイツ・ベルリンで生まれたNIは、パソコン上で楽器をシミュレートする「ソフトウェアシンセ」の先駆けとして登場しました。Reaktor(当初はGenerator)、Kontakt、Massive、Traktor、Maschine……これらは単なる製品名を超えて、現代の音楽制作において「なくてはならないインフラ」として定着しています。創業者のダニエル・ヘイバーらが丁寧に育て上げたその哲学は、「ソフトウェアで本物の楽器体験を超える」というものでした。
iZotope(2001年・ボストン)
マサチューセッツ工科大学(MIT)在籍中の学生たちが2001年に設立した、ボストン発のオーディオテクノロジー企業です。「音楽と数学の幸せな結婚」を標榜する同社は、最初のフリーウェア「Vinyl」の成功を足がかりに、その年の夏にはOzoneの初版をリリース。以来、OzoneやRXは映画・放送・音楽制作のあらゆる現場で業界標準の地位を確立しました。AIを活用したマスタリング支援やノイズ除去の技術は、他社の追随を許さない独自の領域です。当スタジオでも長年愛用しているこのブランドは、まさにエンジニアリングとアートの交差点に立っています。
Brainworx(ドイツ・ランゲンフェルト)+ Plugin Alliance
Brainworxは、ダーク・ウルリッヒ氏がドイツで立ち上げたプラグインメーカーで、アナログ機材の精密なデジタルモデリングを得意としています。SSL、Focusrite、AMEKといった名機を緻密に再現するTMT(Tolerance Modeling Technology)技術は、プラグイン界でも一線を画す存在です。そのBrainworxの創設者であるウルリッヒ氏が、販売・流通プラットフォームとして別途立ち上げたのがPlugin Allianceです。つまりこの2社は「開発(Brainworx)」と「販売(Plugin Alliance)」を担う事実上の兄弟会社であり、100万人以上のユーザーを抱える巨大なエコシステムを形成していました。
Soundwideという「夢」と、その終わり
2022年、これら4つのブランドを一つの屋根の下にまとめるため、「Soundwide」という親会社が設立されました。Alicia KeysやJacob Collierといったトップアーティストをアドバイザーに迎え、1,000万人以上のユーザーを抱える音楽テクノロジーの巨大連合として鳴り物入りでスタートしました。しかし2023年、Soundwideという名称は静かに廃止され、すべてが「Native Instruments」ブランドへと再統合されます。その頃にはすでに、財務の歪みが深刻なレベルに達していました。
なぜNIはここまで追い詰められたのか——前回の「続き」として
前回の記事で触れた通り、NIが急速に巨大化した背景には、投資ファンド「Francisco Partners」による2021年の買収と、iZotope・Plugin Alliance・Brainworxを次々に統合した「Soundwide」構想がありました。
しかし、その歪みはより深いところにあったことが、今回明らかになっています。報道によれば、NIは約2億5000万ポンドもの負債を抱えながら、年間売上はわずか約2500万ポンドという、極めてアンバランスな財務状況に陥っていました。これは、プライベートエクイティによる「レバレッジド・バイアウト」——つまり借金を使って会社を買収するスキームの歪みが、そのまま財務に出た結果です。
2025年末には、ブリッジポイント・グループとベインキャピタル・クレジットへの売却案が欧州委員会に承認されていました。しかし、この取引は数週間で頓挫。高金利環境下での債務返済の重さを理由に、投資家側が撤退したのです。この「命綱」が切れた直後の2026年1月27日、ベルリンの裁判所に予備的破産手続きが申請されました。
今回の買収で、何が変わり、何が変わらないのか
この点が、ユーザーにとって最も気になるところだと思います。
変わらないもの(公式発表より):
- Native Instruments、iZotope、Plugin Alliance、Brainworxの全ブランドが継続
- 現在使用中の製品・プラットフォームはそのまま継続
- 開発・出荷・サポートは通常通り継続
inMusic CEOのジャック・オドネル氏は「全ブランド・全製品ラインへの投資継続と、あらゆるレベルのクリエイターに向けたイノベーション」を約束しています。
今後、注目すべき変化の可能性:
最も興味深いのは、inMusicはすでに「ハードウェアの王国」を持っているという点です。AkaiのMPCシリーズと、NIのMaschineは、現在どちらも同じ会社のブランドになりました。この2つのライバルが同じ屋根の下に入るというのは、かなり大きな話です。
また、2025年には両社がすでにNKS(Native Kontrol Standard)の統合という形で協力関係を築いていました。AkaiのMPCにNIのKontaktライブラリが直接ロードできるようになる——そんな未来が、現実的に見えてきています。
Komplete 26を「直前にリリース」していたという事実
少し余談になりますが、今回の買収発表の直前に、NIはKomplete 26という大型アップデートをリリースしていました。190以上のデジタル楽器と18万種以上のプリセットを収録した、文字通りの「集大成」です。
これは、経営危機の最中にあっても、開発チームが現場で手を動かし続けていた証拠です。ソフトウェアの品質と革新性に関しては、NIは今回の騒動の中でも一切手を緩めていなかった。その点は、素直に頭が下がります。
「プライベートエクイティ」を離れることの意味
今回の買収に関して、一つ個人的に強く感じることがあります。
「製品への愛」で経営してきた創業者たちが去り、「投資リターン」を目的とするPEファンドが舵を取る——その歪みが、今回の混乱の根源にあったことは間違いありません。NIユーザーやコミュニティからも、「inMusicという音楽機材グループへの移行は、むしろポジティブだ」という声が多く聞かれます。
「音楽機材を本当に理解している企業」に戻ったこと——これは、長い目で見れば、ユーザーにとって悪いニュースではないかもしれません。
当スタジオとして、今後の姿勢
前回の記事でも申し上げた通り、私たちは今も日々の作業の中でiZotope OzoneやRX、Brainworxのプラグインを活用しています。
今回の買収の合意を受け、少なくとも短期的な不確実性は大きく解消されました。引き続き最新情報を追いながら、必要に応じてツールの見直しや移行の検討を行っていきます。
ただ、これだけは変わりません。道具が変わっても、私たちがアーティストに提供する「音」への誠実さは、変わらない。
今後の統合の詳細については、inMusic側から数週間以内に発表があるとのことです。引き続き、最新情報はこのブログでもお伝えしていきます。


